経済学の基本である需要・供給分析によれば,価格の上昇は,需要曲線の右へのシフトか,供給曲線の上方へのシフトか,あるいは両方が同時に起こることにより生じます。 インフレを一般的な財の価格の上昇と考えると,それが総需要曲線が右にシフトしたから起こったのか,または総供給曲線が上方にシフトしたから起こったのか,という 2種類に分類できます。前者はふつうディマンドプル・インフレーションdemand‐pull inflation,後者はコストプッシュ・インフレーションcost‐push inflation と呼ばれます。
たとえば完全雇用の状態にある経済において,政府が赤字財政により政府支出を増加させると総需要曲線が右にシフトして, インフレ・ギャップが発生し,物価が上昇するのが前者です。労働争議の結果,賃金が大幅に上昇し,経営者がそのコストを転嫁するために価格引上げを行ったとすれば,後者の例です。この分類は,インフレ鎮静のための処方箋として金融・財政政策による総需要抑制策が有効かどうかという観点から,とくに 1960年代に重視されました。当時は,景気引締策はディマンドプル型に対してのみ有効であり,コストプッシュ型に対して適用しても,いたずらに失業を増やすばかりであるから,政府はコストプッシュ型には価格・所得政策で対処すべきであるとの見解が有力でした。また70年代の2度にわたる OPEC (オペツク) による原油価格の大幅引上げ (いわゆるオイル・ショック) は,経済学にサプライ・ショックsupply shock という用語をもたらした。外生的な要因で企業の限界費用曲線が上方にシフトし,その結果,総供給曲線が上方にシフトする点で,これもコストプッシュの一種と考えられています。
こうした分類はインフレの発生原因に注目していますが, インフレにおいて物価は,単に新たな高い水準に移るだけではなく,持続的に上昇していきます。そこでさらに,なぜ物価の上昇が続くのか,を説明するダイナミックな理論が必要となります。この点について古典派経済学では,物価水準は通貨量に比例すると考えられたので,実質成長率を超える通貨供給増加率が続くかぎり物価水準の上昇も続くことになります。これに対して不完全雇用均衡の理論としてのケインズ経済学には元来,このような動学的なインフレ理論は存在しなかったが,1950年代後半にインフレ率と失業率の間に安定した負の関係 (いわゆるフィリップス曲線) が存在することが実証的に発見され,失業率を用いてインフレ率を説明する体系が一般化しました。
その後,フィリップス曲線を理論的に説明する試みがなされ,その多くが市場における情報の不完全性に注目しました。まず,労働者は限られた情報から物価水準に関する期待を形成し,自分の名目賃金の実質価値 (すなわち実質賃金) をはかる。実質賃金が上昇すれば労働の供給を増す。いま物価が安定している状況が長く続いたあと,突然,物価水準が100から110へと上昇したとする。労働者は第1期目にはまだこの変化を知らないので,以前と同じ名目賃金で以前と同じ量の労働を供給しようとします。このことは製品価格が11になった企業にとってみると労働の実質コストが10%下がったことになるので,企業は雇用量を増やそうとします。この結果,失業率は下がり,実質産出高は増加し,名目賃金もいくぶん上昇します。労働者はこの名目賃金の上昇を実質賃金の上昇と誤認して労働の供給量を増やしたわけです。そして第1期の期末に賃金所得を消費しようとするときに初めて労働者は物価水準が110に上昇してしまったことに気づきます。そこで彼は第2期目には期待物価水準を110に修正し,それで名目賃金の実質価値をはかろうとします。もしここで物価水準が不変であれば,名目賃金はさらに上昇して110に達し,雇用量は減少して以前の均衡量へ戻ります。しかし,この間に物価水準はさらに121へと10%上昇し,名目賃金も115.5へと同じ10%だけ上昇したとします。実質賃金は実際には115.5÷121=0.95ですが,労働者は115.5÷110=1.05と誤認するため,第2期目も第1期目と同じ高い水準の労働の供給と雇用が実現します。こうして労働者の期待物価水準が現実の物価水準につねに1期遅れるとすれば,定率の物価と名目賃金の上昇がこの高い雇用量を支えることになります。
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